2009'10.03.Sat
『馬鹿やろう!』
そんな罵声が聞こえた気がする。
でもそれは、自分のすぐ傍らからの発言ではなく、霞がかった遠い世界での出来事のように思えていた。
すくなくとも、倒れ行く珠紀はそう認識していた。
水を溜めた銀色の桶の淵に、白いタオルが引っかかっている。
時は明け方。
窓の外は、ようやく白み始めた東の空と、まだ濃紺をしっかりと残した西の空が、お互いを打ち消すようにせめぎあっていた。
「……ん…。」
しかれた布団の上で、珠紀は小さな声をもらし、寝返りを打つ。
そのまま深い眠りの淵から意識を起こし―――、
「あ、真弘先輩……?」
布団の傍らに、胡坐をかいている小さな少年(といっても珠紀よりひとつ年上なのだが)の姿を捉えた。
畳の上で胡坐をかいている真弘は、うつらうつらと上体を揺らしていたが、そのつぶやきに気づいて、はっと顔をあげる。
いつもは生意気な光を宿して輝く翡翠の瞳は、少し赤く腫れていた。
「おきたのか。」
「えっと、何がどうなって。」
「倒れたんだよ。帰ってる途中に。」
「倒れた…?私がですか?」
「ほかに誰がいるんだよ。」
あきれを含んだ真弘の吐き捨てるような一言は、珠紀の発言を肯定している。
珠紀はどうして自分が倒れるような経緯に至ったかを思い出そうとして、学校での出来事を思い出す。
あれは体育の時間だった。
外でマラソンの練習をしているとき、急に豪雨が降り始めた。
校舎から一番遠くのトラックを走っていた珠紀は見事ずぶぬれになり、体育が終わってからもろくに体を拭くことなく着替え、頭がぬれたままで残りの授業を受けたのだ。
豪雨はただの通りすがりの雨だったようで、帰宅するころには上がっていた。
だが、珠紀の長い髪は学校の終了までに乾ききらず、真弘と校門前でであったときには、首筋に薄ら寒い何かを感じていたものだ。
思えばそのときには、すでに風邪を引いていたのだろう。
現に、真弘と落ち合ったとき、彼に「顔赤くないか?」と言われたのだから。
珠紀はそれをてっきり冗談だと捉え、力のごとく否定して、帰路を急いだ。
だが、田と田の間のあぜ道辺りで記憶は途切れている。
おそらく、その時倒れたのだろう。
「つれて帰るの大変だったんだぞ。」
「え、真弘先輩がうちまで運んでくれたんですか?」
「ま、まぁな。」
尊敬の意をこめて真弘を見上げれば、彼は一瞬うろたえ、けれども鼻高々と腰に手を当ててふんぞり返った。珠紀の目は決して見ずに。
―――ああ、嘘なんだろうな。
珠紀はそう思ったが、口には出さず、後日何らかの手段で真実を聞き出そうと心に決めた。
それにしても、倒れる寸前に聞こえた『馬鹿やろう!』は、いささか乱暴な言い草すぎやしないか。
助けてもらったことには感謝だったが、罵声を吐かれたことに対する怒りがふつふつと湧き上がってくる。
馬鹿とはなんですか、馬鹿とは。
一言言い返してやろうかと思い、首をもたげた時だった。
「心配かけんな、馬鹿。」
衣擦れの音と、耳にかかる暖かい吐息。
体を引き起こすよう、背に回された両腕の抱擁はすこしきついくらいだったが、小さい彼の大きな心配が見て取れた。
重なりあう胸から伝わる彼の鼓動は、力強くて優しく、暖かい。
珠紀は目を閉じて、真弘の背中にその腕を回す。
そして、優しくその背を上下にさすった。
どこにも行かないから、安心して―――そんな意をこめて。
(ああ、私、馬鹿だ。)
大好きな彼を、こんなにも心配にさせてしまうなんて。
彼の言う通り、馬鹿に違いなかった。
だから、心の中でつぶやいた。
馬鹿でごめんなさい、と。
そんな罵声が聞こえた気がする。
でもそれは、自分のすぐ傍らからの発言ではなく、霞がかった遠い世界での出来事のように思えていた。
すくなくとも、倒れ行く珠紀はそう認識していた。
水を溜めた銀色の桶の淵に、白いタオルが引っかかっている。
時は明け方。
窓の外は、ようやく白み始めた東の空と、まだ濃紺をしっかりと残した西の空が、お互いを打ち消すようにせめぎあっていた。
「……ん…。」
しかれた布団の上で、珠紀は小さな声をもらし、寝返りを打つ。
そのまま深い眠りの淵から意識を起こし―――、
「あ、真弘先輩……?」
布団の傍らに、胡坐をかいている小さな少年(といっても珠紀よりひとつ年上なのだが)の姿を捉えた。
畳の上で胡坐をかいている真弘は、うつらうつらと上体を揺らしていたが、そのつぶやきに気づいて、はっと顔をあげる。
いつもは生意気な光を宿して輝く翡翠の瞳は、少し赤く腫れていた。
「おきたのか。」
「えっと、何がどうなって。」
「倒れたんだよ。帰ってる途中に。」
「倒れた…?私がですか?」
「ほかに誰がいるんだよ。」
あきれを含んだ真弘の吐き捨てるような一言は、珠紀の発言を肯定している。
珠紀はどうして自分が倒れるような経緯に至ったかを思い出そうとして、学校での出来事を思い出す。
あれは体育の時間だった。
外でマラソンの練習をしているとき、急に豪雨が降り始めた。
校舎から一番遠くのトラックを走っていた珠紀は見事ずぶぬれになり、体育が終わってからもろくに体を拭くことなく着替え、頭がぬれたままで残りの授業を受けたのだ。
豪雨はただの通りすがりの雨だったようで、帰宅するころには上がっていた。
だが、珠紀の長い髪は学校の終了までに乾ききらず、真弘と校門前でであったときには、首筋に薄ら寒い何かを感じていたものだ。
思えばそのときには、すでに風邪を引いていたのだろう。
現に、真弘と落ち合ったとき、彼に「顔赤くないか?」と言われたのだから。
珠紀はそれをてっきり冗談だと捉え、力のごとく否定して、帰路を急いだ。
だが、田と田の間のあぜ道辺りで記憶は途切れている。
おそらく、その時倒れたのだろう。
「つれて帰るの大変だったんだぞ。」
「え、真弘先輩がうちまで運んでくれたんですか?」
「ま、まぁな。」
尊敬の意をこめて真弘を見上げれば、彼は一瞬うろたえ、けれども鼻高々と腰に手を当ててふんぞり返った。珠紀の目は決して見ずに。
―――ああ、嘘なんだろうな。
珠紀はそう思ったが、口には出さず、後日何らかの手段で真実を聞き出そうと心に決めた。
それにしても、倒れる寸前に聞こえた『馬鹿やろう!』は、いささか乱暴な言い草すぎやしないか。
助けてもらったことには感謝だったが、罵声を吐かれたことに対する怒りがふつふつと湧き上がってくる。
馬鹿とはなんですか、馬鹿とは。
一言言い返してやろうかと思い、首をもたげた時だった。
「心配かけんな、馬鹿。」
衣擦れの音と、耳にかかる暖かい吐息。
体を引き起こすよう、背に回された両腕の抱擁はすこしきついくらいだったが、小さい彼の大きな心配が見て取れた。
重なりあう胸から伝わる彼の鼓動は、力強くて優しく、暖かい。
珠紀は目を閉じて、真弘の背中にその腕を回す。
そして、優しくその背を上下にさすった。
どこにも行かないから、安心して―――そんな意をこめて。
(ああ、私、馬鹿だ。)
大好きな彼を、こんなにも心配にさせてしまうなんて。
彼の言う通り、馬鹿に違いなかった。
だから、心の中でつぶやいた。
馬鹿でごめんなさい、と。
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